春の「別れ」と「出会い」の季節に思うこと

春は「別れ」と「出会い」の季節と言われ、もしかしたら一年の中で最も環境の変化が大きい時期かもしれません。対象となるのは、人だけでなく、電車から見るあの景色、大切な人と一緒によく見た夕暮れ、よく通った食堂など、様々な繋がりも含まれるでしょう。私個人は、3月の別れを引きずったまま(?)4月を迎え、バタバタと忙しくしているうちになんとなく環境に馴染んでいくように思います。世の中の移り変わりの速さについていけない思いを感じることもあります。世間では、4月の新しい環境への希望を前向きに語られることもありますが、3月の「別れ」に対する寂しさというのは、なかなか語られないものかもしれません。

「別れ」は、人が自分の前からいなくなる体験です。卒業や転勤などがまさにそうですね。人はいなくなるからこそ、その人の中に「内在化」されるという言葉があります。日常的に会っていれば、目の前にいるわけですから、相手を自分の中に内在化させる必要がないのかもしれません。目の前から大切な人がいなくなる悲しみが、大切な人を自分の心の中に内在化させるのでしょう。そう考えると、「別れ」も私たちの心の成長に必要なのだという考えも湧きます。ただ、それでも「別れ」が堪らなく辛い、寂しい、というのも事実です。そのようなことを語ると、「くよくよしないで前を向きなよ」と言う人もいるかもしれません。しかし、過去をどう受け止めるかは「今」の自分なのです。私は「過去は大いに語れ」と反論したくなります。高齢者の方が昔を語る「回想法」が認知症の予防やメンタルケアに繋がっていることもあながち軽視できません。そして、堪らなく辛い寂しい気持ちも、それだけ大切なことなのだと思うと、私は「もう少しその感情を味わって大切にしてみては?」と言いたくなります。もちろん、それが深い傷であればそう簡単にはいきませんが…。皆さんはいかがでしょうか。

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